amazarashi Live Tour 2019 「未来になれなかった全ての夜に」 @グランキューブ大阪 2019 7/5

※本記事には現在進行中のツアーのネタバレがございます。この先の閲覧は自己責任でお願い申し上げます。













ロックバンドといえば夜、というイメージがある。昔から、バンドマンは何かと日陰者な存在だった。昼はせっせと働き、夜は練習スタジオやライブハウスに籠る。ロックバンドと夜は切っても切れない関係にあると思うし、実際amazarashiも、歌詞に「夜」の入る曲は非常に多い。


去年のツアーで、秋田ひろむは「死にたい夜を越えて」と語っていた。今日のライブは、まさにそんな夜に捧げる、祈りのようなライブだった。

 

今年は2月にシングルをリリースし、4月から1年ぶりのツアーを回っているamazarashi。武道館公演におけるコメントで、秋田ひろむ(Vo,Gt)は「前回のツアーでバンドとしての大団円を迎えてしまった」と語っていたが、圧巻だった武道館公演を経て、彼らはどんな表現を用いてこのツアーを回っているのか。しかし彼らのことだ、予想以上のものを見せてくれるに違いない、という確信はある。

今日の公演はツアーの追加公演に位置する。会場はグランキューブ大阪。以前flumpoolのライブで来たことがあり、キャパシティでいえばZepp Osaka Baysideに次ぐ広さ。amazarashiがここでライブをするのは初めてだ。さて、どんな夜になるか。

 

前回のツアーから「ワードプロセッサー」が1曲目のポジションに定着しつつあったが、今回のツアーで1曲目にセットされたのは「後期衝動」。暗転するとメンバーが既に持ち場についており、秋田ひろむが堰を切るように歌い出す。紗幕には彼のシルエットが写し出され、そこに頭上から歌詞が降ってきて、まさにバンド名の通り雨曝しになって歌っているかような開幕を経て、

 

「未来になれなかった全ての夜に!青森から来ました、amazarashiです」

 

とおなじみの挨拶から「リビングデッド」へ。スクリーンに映し出される映像はもちろん新言語秩序のもの。武道館公演はディレイビューイングで見ていたため、しっかり映像を追うことはできなかったが、よく見てみると、Twitterの呟きが規制されていく中に実多の呟きがあったり、希明の連投ツイートのようなものも確認することができた。それにしても、amazarashiの持ち曲でなければきっとコール&レスポンスが起きるような曲になっていただろうが、そうはならないのがamazarashiのライブだ。

 

続けて轟音と共に「ヒーロー」が歌われると、

 

「苦しかった夜のことを歌いにきました。あの頃自分を動かしていたのは、今に見てろ、もう一度って感情だった」

 

と「もう一度」へ。何度だってやり直せる、みたいなことを歌った曲は多いが、amazarashiが歌うとより説得力が増す。しかしここまで4曲、飛ばしすぎかと思うくらいの熱量だ。

 

ここで今回のツアーの意味に気づいた。未来になれなかった夜とは、彼自身が、そして私たち自身が何度も経験してきた、悲しみや絶望に打ちひしがれた夜のこと。そして今日のライブは、新しい朝を迎えるために、そんな夜を終わらせるためのライブであると。

 

彼らの言葉には魂が宿っている。それは次に披露された「たられば」にも顕著で、この曲は言ってしまえば秋田ひろむ自身の「もしも」を一貫して語っているだけの歌詞なのに、なぜか泣けてくる。まるで自分自身にも思い当たる節があったかのように、心の琴線が揺れるのだ。そうやって聴く人の心の奥底にまで訴えかけてくる音楽はそうそうない。

 

「もしも僕がミュージシャンだったなら 言葉にならない言葉を紡ぐ」

 

という一節があるが、もう既に自分はamazarashiから言葉にならない言葉をたくさん受け取っている。

 

序盤と中盤の架け橋となった新曲「さよならごっこ」は、よく聴くと歌詞に「未来」とか「夜」というワードがあるのに気づく。今回のツアータイトルも、そこから着想を得たのだろうか。amazarashiは歌詞にばかりフォーカスが向きがちだが、「地方都市のメメント・モリ」以降にリリースされた曲は明らかにサウンドの毛色の違う曲が目立つ。それは序盤に披露された重低音の際立つ「リビングデッド」もそうだし、「さよならごっこ」だってそうだ。

 

全体的に打ち込みの比率が増えた気がするのだが、まるで歌詞の薄暗い世界を投影したかのように、その無機質なはずの音にもどこか陰りが見える。そんな彼らの最新形を見せたのが、まさに銃弾のように言葉が撃ち放たれる「それを言葉という」だった。

 

「わいは初めは0でした」

 

との語りから始まったのは「光、再考」。どん底から光を模索するような映像と歌から、ダークな「アイザック」へ流れ込む。秋田ひろむの苦しかった過去をなぞるかのような一幕を経て、再び彼のシルエットが投影され、「季節は次々死んでいく」が演奏される。

 

武道館の時はニュースペーパーなどが目まぐるしいスピードで規制されていく様を描き、見事に新言語秩序の物語に溶け込んでいたが、今回の映像もまた彼が這いつくばるように生きてきた様を、シルエットに歌詞が暴風の如く吹きつけるという表現で視覚化していた。

 

次に披露された「命にふさわしい」もそうだが、この2曲はそれぞれ「東京喰種」「NieR:Automata」のタイアップとして作られた曲で、2つともむちゃくちゃアクの強い作品だ。だが武道館と同じく、今回のツアーでも何の違和感もなくセットリストに組み込まれ、物語を彩っている。これはamazarashiならではの芸当だ。

 

「19歳の時に死んだあいつに、背後霊として今も見張られている気がします」

 

の言葉から始まったのは「ひろ」。唯一映像はなく、彼らを照らすのはメンバーごとに淡く差し込むスポットライトのみ。これこそが顔を隠してまで音楽に集中させる彼らのあるべき姿だと思った。本当に感動できる曲には過度な飾り付けはいらないんだな、と思い知る。

 

「空洞空洞」を経て演奏されのは「空に歌えば」。全体的に夜の雰囲気が漂っていた空気の中で、昼間の青空を連想させるこの曲がこの位置に来たのは意外だった。前回のツアーは欠席していた豊川真奈美(Key)のコーラスが楽曲を彩る。この曲をリベンジしたかったのだろうか。

 

ここでライブの風向きが一気に変わるのかと思われたが、次に披露されたのは訪れることのない永遠を願う「千年幸福論」。こうして並べてみると、「空に歌えば」がなぜこのポジションに着いたのか、自分の足りない頭では考えつかなかった。

 

「どうせライブももうすぐ終わります。amazarashiのライブも千年は続かないので」

 

と、笑うところなのかそうじゃないのかわからないMCを経て、秋田は今回のツアーに込めた思いを語る。

 

「今回のライブは昔のことを歌っています。でも、昔は言えなかった、今だからこそ言える言葉を歌いたい。あの夜、言えなかった、奪われた言葉を取り戻すために」

 

この言葉から始まったのは「独白」だった。正直なところ、この曲は武道館で演奏されたのが最初で最後だと思っていた。武道館で検閲が解除された時のあのカタルシスは相当なものだったし、あの場でこそ鳴る必然性を持っていた。しかしどうやら武道館の後もしばしばライブのセットリストに組み込まれていたらしいし、それどころか今のamazarashiにとっては相当重要なポジションを担っている曲らしい。

 

「言葉を取り戻せ 言葉を取り戻せ」

 

と後先考えず叫ぶ秋田に呼応して、バンドサウンドもこの日トップクラスの力強さを纏っていた。

 

そして最後に演奏されたのは「未来になれなかったあの夜に」。苦しかった、死にたかった過去の夜を「ざまあみろ」と肯定しようとする様は、amazarashi自身がamazarashiを肯定している姿だったし、私たち自身が私たちを肯定するための優しさと力強さを伴った曲だった。このツアーの最後を担うのに相応しい曲だったし、これから何度もamazarashiの物語を彩っていく存在になるだろう。

 

amazarashiの音楽は極めて自伝的だ。共感とかは一切求めていないし、共感できるのは私たちが勝手に自分自身を重ねているだけだ。

でも彼らは説得力が桁違いだから、楽曲を聴くと彼ら自身のストーリーを、あたかも追体験したかのような感覚になる。共感を求めていないのに共感させてしまうのもまた、ロックバンドの強みだ。そういう意味では、amazarashiのライブは非常にロックだし、武道館を経ようとも昔から言いたいことは何も変わっていない。やはり彼らはものすごいバンドだ、と改めて認識させられた。

 

今日までの日々が報われたような気がした。